あれも、これも、イエス様に会った話も・・嘘・・でした

ブログ記事に 文先生の嘘 だった話・・


  ” 写真 ” の件 に ” 学歴詐称 ” の件。


が・・出てきていますが・・
文先生の 嘘 の話しは・・取り上げていたら・・きりがないように思います。


  ”私が個人的に(理解・確認)している 嘘 を挙げると・・
    *写真の件
    *海を渡った話
    *学歴詐称の件
    *文先生に恋焦がれて自殺した女性の話
    *イエス様に会った話
    *従軍慰安婦の話
    *戦後、引き上げていく日本人を、迫害する村人から救い帰国を援助した話
   でしょうか。


・・よくぞこれだけの嘘がつけれる・・と感心しますが
・・それよりも・・もっと凄いのは


嘘だと証明されても・・


 な お も 嘘 を つ き 続 け る こ と が で き る 


ことではないか・・と思います。
ナツミカンさんが
  「文先生の学歴詐称はとっくの昔に証明されていたこと。
   ・・それなのに・・
   聖和式でも まだ学歴詐称をしていた」・・とのこと。


何と言いましょうか・・


韓国人は 「嘘も百回言えば真実になる」 というのを
本当に信じているのでしょうか・・?
それで・・嘘だと証明されても・・なおも・・
つき続けることが・・出来るのでしょうか・・?


?・・多分・・ 良心 の感じ方が・・日本人とは・・違う・・のでしょうね。
  ” 私が韓国で従軍慰安婦について調べていた時も
    私が 嘘なんだ・騙されたんだ と理解した後でも 同じ手(言い訳)が
    通用する・・と考えていたのですから。
    多分・・韓国人の感覚・・「 嘘 」と 「 正義 とか 善・悪 」 
    の感覚は・・常識の・・レベルが違いすぎて理解ができないように思います”
    
それから・・写真の件 朴青年を背負って海を渡っている写真・・も
「文先生ではない」・・と、判断されても・・
講義の中の 主の路程 では長い間・・使い続けられていたように覚えています。


最初・・写真が出たばかりの頃は、
教会は大盛り上がりで、教会をあげて宣伝をしていました。
写真を大きなパネルにして玄関に飾り
普通サイズの写真を スターのプロマイド のようにして販売していました。
ですが・・
しばらくして・・それらの全てが取り除かれました。
それも・・ある日・・突然に・・
  理由はよく分かりませんでした。説明がありませんでしたし、
  誰かにその理由を訊ねられる雰囲気でもありませんでした。
  ある日、急に 写真の事は タブーとなったのでした。
    ”それは・・本当に不思議なことでした。
     ・・文先生が「写真の人物は私ではない」・・と、
     文先生が直接否定されるよりも前に・・「嘘」だと認められるよりも・・
     かなり前に教会から消え去ったのでした”



そして・・私がそれらのいきさつのようなことを・・耳にしたのは
・・一年後ぐらい・・だったでしょうか・・?
  写真が文先生なのかどうなのかの確認を
  ・・金ウォンピル先生に取った・・と言う話でした。


その時の ウォンピル先生は 写真を見ながら・・
 「この写真は・・先生のような・・先生でないような・・
  こうだったような・・こうでなかったような・・」
と、否定も肯定もされなかったとのこと。


多分・・ウォンピル先生が・・
  否定されなかったのは・・
  多分・・文先生が言われたことを否定できない立場にあるからでしょう。
  それに対して肯定されない理由は・・
  ・・まったく ない ・・ように思います。
そして・・多分・・そのことから・・教会では写真は文先生ではない
と言う判断だった・・のではないか・・と思います。


でないと・・文先生が否定もしていないのに・・教会から
写真が消えていくことは・・ 有り得ない ・・と思います。


  ?・・
  確か・・教会から写真が消えたのは・・数カ月後ぐらいで・・
  文先生が正式に 「自分ではない」 と認められたのは
  写真が出てから ?・・10年後 ぐらいだったように覚えています。


まぁ・・本当にすごいですね。
嘘 だと知れ渡っていた・・にも関わらず
修練会での 主の路程 には使い続けられていた・・ということ ですから。
・・? ・・?
   もしかして・・今でも使っているのでしょうか?
   (残念には思いますが・・可能性はありそうな気がします)



そして、これと同じなのが
海を渡った話・・でした。
この話もウォンピル先生に訊ねた時に・・
写真と同じように・・否定もしなければ肯定もしなかった とのこと。


只・・文先生に確認が取れた 写真 と
確認が取れなかった 海を渡った話 の違うところは・・
文先生に確認を取れる人が誰もいなかったことでしょうか。


  多分・・写真の件は朴ポーヒー先生が自分が持ってきた写真だったので
  責任を感じておられたのだと思います。
   (自分の責任で文先生に 嘘 をつかせてしまったかもしれない)・・と
  それで先生に確認をせざるを得なかったのではないか・・と思います。
  「この写真は先生ではありませんよね」と。
  その質問をされた時の朴先生の苦しい胸の内・・に対して文先生は
  「そうだよ。それがどうしたんだ」と
  ムッとした表情をされた・・とのこと


  多分・・文先生は嘘をつかれた人の悲しみを理解することが
      できなかった・・のだと思います。
      その時の朴ポーヒー先生のことを思うと・・胸が痛いですね。
  
多分・・文先生の世界は・・


  俺 が 白 だ と 言 え ば 白 な ん だ


  言 っ た も ん 勝 ち


の (世界観・ルール) なのだと思います。


・・・・・


それにしても・・


「海を渡ったと証言する文先生」と、 「それを証言しないウォンピル先生」


文先生 VS 金ウォンピル先生


どちらが信用できるのか?


多分ウォンピル先生でしょう。
だって・・文先生の話が信じられないから・・信じられなかったから・・
ウォンピル先生に確認したのではないでしょうか。
もし・・信じられたのであれば・・確認すること自体・・必要ないでしょう。
  
そして・・ウォンピル先生の方を信じたからこそ・・
写真の件では文先生が否定するよりも以前に
教会から・・全て取り除かれていた・・のではないでしょうか。
 (?・・文先生と教会幹部の方々は御自身で情けない・・と、
  思うことはないのでしょうか。
  教祖様の言葉の正否を弟子であるウォンピル先生に確認を
  取らないといけない・・だなんて・・悲しいですね)


・・・・・


まぁ・・私が思う・・これらの(嘘だと判断されていても嘘をつき続ける)
問題の解決の方法として


文先生が嘘を認めたものと、認めていなくとも確認が取れるものは
教会が・・


  正 式 な 形 で の 発 表 を す る こ と 


ではないか・・と思います。
教会が 


 「文章で正式な発表をし、文面に証拠として残す」


ことが大切なのではないでしょうか。多分・・これをしないから・・
しばらくすると又 嘘 と証明されたのに
・・その話が出てくる。
のではないか・・と思います。


   なので・・
   文先生が嘘だと認めた件
     *写真の件
     *文先生に恋焦がれて自殺した女性の件
   文先生が認めていなくとも証拠がある件
     *学歴詐称の件


これらだけでも・・正式に文面として発表して・・残しておくべきでは
ないか・・と思います。