クリスチャンのきまぐれさん・・お返事ありがとうございます


>シスターさんが相手をしてくれたということは
 カトリックの教会だったのでしょうか?


・・・・
すみません。
通りすがりに(この教会・・素敵な洋館だな)と思って入ったので・・
確認はしていません。


受付の方が「シスター」と呼んでいたのでそうなのだと思いました。



>イエス・キリストは十字架に架かる必要があったのかというご質問ですが、結論から言えばその必要性があったということになります。
>その根拠と言われれば聖書にそう書いてあるからということが理由になります。


・・・・・
・・何と言いましょうか・・「聖書にかいてある」
・・そう言って・・(聖書)を根拠にして・・教会は何人の人を 
「魔女裁判だとか異端審問会」 にかけて惨殺してきたのでしょうか?
その歴史が500年間もあるというのですから・・
 (その間ヨーロッパの各地で繰り広げられたというのですから)
毎年1万人が殺されていても500万人を殺したことになります。


神の聖名を語った十字軍遠征もそうではないでしょうか。
力で制圧しようとすれば・・相手も戦ってくるでしょう。
それを・・愛ではなく戦いを挑むことによって、何人の犠牲者をだしたのでしょうか。
街は血の海と化した・・と、あります。


「天動説と地動説」の話も同じように・・
聖書に書いてあるから・・と言って・・人を納得させるだけの根拠になるとは
思えないですね。



>イエス様ご自身も言っておられますし、実際自発的に十字架に架かる道のりを
選んでいます。
>自発的にわざわざエルサレムに行っているのです


・・・・
・・?
私の隣に誰かが引っ越してきた・・として・・
その人を私が殺して、その後警察に罪を問われた時に
「この人は自ら私の隣に引っ越してきたのです。
 それは自ら死を選んだということです」


その言い訳は通じるのでしょうか?
まぁ・・「殺した後からの言い訳」にしか普通は聞こえない・・
のではないでしょうか。



>この世界を作ったのは神様でこの世のルールも神様が作ったものなのです。


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聖書が全てと言うのであれば・・何故、天動説から地動説に変わったのでしょうか。
神様のルールと言いながら・・ 月日が経てば・・ルールが変わる というのは
説得力がないように思います。
それに聖書が正しいのであれば・・
「魔女裁判も異端審問」も続けるべきではないでしょうか。
聖書の教えに基づいて・・過去行ってきた事なのですから。


聖書を信じろと言いながら・・都合の悪いことは
無視している(逃げている)(隠している)(なかったことにしている)・・
ように見えます。




>統一教会はイエスキリストは失敗したと言っている・・


・・・・・・・・・・
すみません。誤解があるようですが・・統一教会は
イエス様が失敗したとは言っていません。
「道半ばで・・」と言っているのです。




>聖書の記述を素直に読めば預言は全て成就すると理解するのが妥当ですし、
過去に外れた預言を確認することはできません。


・・・・・・・・・
外れた予言はない・・
?・・そうなんですか。
確か・・イエス様は「すぐ来る」と言われていたような・・
直ぐ と言われていながら2000年。
一体いつまで待てばいいのでしょうか。
それから私が子供の頃に外国からの一部の宣教師の方が「ハルマゲドン」がくる
と言って宣教活動をしていましたが・・
すぐ来るように言っていた「ハルマゲドン」もいつ
くるのでしょうか?



>もしイエス様が死ぬ必要があったとしてもなぜ、あんなにむごたらしい方法で
殺されなければならなかったのかということですが神様はあえてそうした道を
選んだように思います。


・・・・・・・
イエス様は十字架を背負って行かれるときに・・泣いている夫人に
「私の為に泣くのではなく・・自分と子孫の為に泣きなさい」
と語られた・・とあります。
それは・・死ぬことが正しいのでないことを示唆しているのではないでしょうか。
もし、死ぬことが目的であれば・・
「泣く必要はありません。救いが成就するのです。喜んでください」
と語られたのではないでしょうか。




>また、ユダの裏切りの件ですが、仮に彼が裏切らなくてもイエス様は十字架に
架かったと神学者らは考えています。
>ユダヤ人がイエスキリストをメシアとして迎え入れていれば今度はローマ帝国が
イエスキリストを十字架にかけただろうと考えています。



・・・・・・・
・・??
私が隣の人を殺害したとして・・警察に、
「私が殺さなくともこの人は、別の隣の人に殺されていたでしょう」
と、弁明したとして・・
・・?
その言い訳は・・如何なものなのでしょうか。



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お返事 本当にありがとうございます。
とても勉強になりました。何より聖書からのたくさんの引用と
知識の量・・ 統一教会信者など ・・足元にも及ばないですね。


  それでも・・
  私は、統一原理を通じて、イエス様に出会えたことを
  感謝しています。本当に良かった・・と思っています。
  それは・・
  既存のキリスト教では教えてくれなかった
  「イエス様の本来の姿」
  に想いを馳せることができたからです。
  もし、
  「イエス様は死ぬために来られた」
  という解釈であれば・・心のどこかで・・納得がいかない自分が存在して
  イエス様とは出会うことが出来なかった・・と思います。



  きまぐれさんにもう一つ質問があります。
  「迫害を恐れず・・もっともキリスト教を広めた方は
   どなただった・・と、認識しておられますでしょうか」


  その方は・・多分・・イエス様の死後・・死と迫害を覚悟して
  (敵地に)宣教に出かけた・・12弟子の方々ではなかったでしょうか。


  きまぐれさんは その12弟子の宣教の原動力になったのが・・何だったのか・・
  疑問に思われたことはなかったでしょうか。


    弟子の多くが・・文字の読み書きもできなかった。
    聖書(律法書)も持っていなかった。
    それに今のように神学によって救いを理論武装することもなかった。
     (12弟子は「神学」を学んで・・イエス様の救いを実感したから
      宣教に出た)のではない・・と思います。
  
  ・・頼みの綱のイエス様も殺された・・そんな彼らの原動力になったもの。
  
  それはイエス様が
  「私はもう一度来る・・お前たちが全ての街を廻りおえる前にもう一度来る」
  そのように語られたからではないでしょうか。


  つまり・・12弟子は・・
  「イエス様にもう一度会いたい。その声をもう一度聞きたい」
  「イエス様に生きていてほしかった」


  その思いが・・弟子たちの死を恐れない強い意志へと繋がり・・伝道へ
  駆り立てられた・・のではないでしょうか・・


  それを・・イエス様は死ぬために来られた・・と、12弟子達が考えて
  いたとしたら・・
  今のキリスト教は存在していなかった・・のではないでしょうか。


12弟子の「イエス様にもう一度会いたい」その思いを持って聖書を読むと
聖書はまた別の輝きを放ってくれるように思います。