私が期待し待ち望んでいる人について

前回の記事つづきのつづきです。
「私には無理」・・と、
現状に打ちのめされていた私に対して、
「そんなことはわかっている」
と、言ってくださったイエス様の言葉が
私には救いの言葉に聞こえました。・・不思議なことに
   (否定されたのに・・肯定されたように感じました。
    多分・・今、思うと・・その頃の私は信仰をすることに
    疲れていたのだと思います。
    毎日毎日、アベルから実績追及されて、自己否定されて・・
    随分と追い詰められた信仰をしていたんだと思います。


     「実績がでない者は信仰的に問題がある」
     「アベル絶対・カインとしての自覚」等・・
    
    それに・・アベルからの追及だけでなく自分自身でも 
     「自分は堕落人間の末裔。
      神様にとっては哀しみの存在。
      生きていること自体が・存在自体が罪。
      完全自己否定すべき存在」と、
    自分を否定することが 信仰者としての道理と自分で自分を
    貶めていたのではないかと思います。)


それで・・「自分には無理」と自己否定している自分に対して、
イエス様が、
(あなたにできる精一杯のことをすればいいのだ)・・と。
(ありのままのあなたでいいのだ)・・と。
私自身を 肯定 してくださったように思えて そのことで
「救い」 と 「安らぎ」 を感じたのだと思います。


それと同時に、その言葉は、
(今のあなたは信仰をしていると言えるのか?それが信仰なのか?)
(自己否定することが・自分を追い詰めることが 信仰なのか?)
と、問われたようにも思えました。



それからまた、
イエス様の言葉が聞こえてきました。
今度は神様に対してでした。
私の方を振り返られながら
「神様、
 この者は信用できる者です。
 きっと
 信念を持って戦ってくれるでしょう」と、
神様に言われているのが聞こえてきました。


私は・・幸福感に包まれました。


そして・・聖句が思い浮かびました。
(子の心を父に向かわせ、父の心を子に・・・・)と。
(本当にイエス様は神様に堕落人間をとりなしてくださっているのだ)と。
そのことが実感として伝わってきました。


地上での争いの声が遠くに聞こえているのに・・
  イエス様の言葉がその場の空気までも変えたようでした。
  イエス様の思いやり、やさしさ、人に対する愛情とが
  空気を通じてまで伝わってきたかのようでした。


それで・・私は自然と・・
(文先生とイエス様の違い)を考えてしまいました。
  それは・・
  イエス様から感じた 思い・愛 は・・
  文先生からは感じることが無かったものだったからでした。


  文先生から感じること・・
  それは・・
   「再臨主である私と、堕落人間であるお前たちとでは血統が違うのだ」
  と言う・・人としての存在自体までも否定されるような厳しいものでした。


  そして、文先生の祈りは・・
  「神様、この者をお許しください。
   神様、この者を祝福してください。
   神様、この者を導いてください。」と、
  ・・人が如何に罪深く、神様に相応しくない存在であるかを
  人と神様との隔たりを助長・自覚させているようでした。
   まるで・・
   「堕落人間であるお前たちが神様に近づけると思うな。
    汚らわしい」
   そう言われているようでした。


それを思うと・・
イエス様は・・
人と共におられようとされているのが伝わってきました。
神様と人との隔たりをなくそうとされているのが伝わってきました。


なので・・
私は・・
(これが本当のメシヤなんだ)と、そう実感したのでした。


私には・・
理論的に説明はできませんが・・
そのとき思ったことは・・
「文先生が再臨主として 本物か偽物か
 文先生は 神様に祈ってみなさい」と、言われているけれど・・
再臨主かどうかよりも メシヤ として本物なのかどうかを
問いたい・・そう、思いました。


それほど・・イエス様からは文先生との違いを感じたのでした。
(人に対する 愛情 が 配慮 が全く違う。と)




そして私は・・イエス様を 証し したいと思いましたが
同時に
「私に イエス様を証しするのは無理だ」と言うことも理解しました。


何故なら・・
 戦場で 私の言葉は武器にはなりませんでした。
   もし、文先生が 違う とするならば・・
   間違いなく・・
   それを示せる・裏付ける 聖句 が必要となるでしょう。
     (・・なんでも鑑定団 の鑑定士ように・・
      本物と偽物のその違いを説明できなければ・・
      証しすることなどできないでしょう)
   そして・・私には膨大な聖書の言葉の中から
   イエス様をメシヤとして証し、文先生との違いを示す 聖句を
   探し出すことなど・・できないでしょう。
 


・・・・と、思っていたのですが、
統一教会の中には それが可能な方が、そのような条件を満たす方が
おられることに気が付きました。
私が証ししなくとも 証し人 が教会の中にはいることに気が付きました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つづく