待ち人来たらず・・?  なのか・・?

やっぱり・・といいましょうか・・
私は・・相応しくないようですね。


  イエス様の証し人 


には・・


記事を書いていても・・
イエス様をどのように証しすれば良いのか
私には さっぱり です。


原因は・・
多分・・
私が、それまで、
イエス様に祈ってきたことがない とか クリスチャンとしての自覚
(イエス様を信望したことがない)が原因だと思います。
そして・・
そんな自分に対して、イエス様からの一方的な 恩寵・恩恵 を、思うと・・


畏れ多くて・・
自分には証しする資格などない。


そのような感じでしょうか。


あと・・


与えられた啓示が・・
自分が祈り求めていたことに対しての答えではなかった・・
自分が得たかった答えではなかった・・
ということ・・もあるように思います。


  その頃の自分はよく祈っていました。
  信仰上の悩みと 戦いが沢山ありましたので。
  ですが、祈りの内容も戦いの理由も
  教会員としてはよくあることでした。 普通の事でした。


  「実績がでないこと」 「アベルに対しての悩み」 ・・でした。


そう・・
決して・・


「文先生がメシヤであるか・どうか」


を祈っていたのではありませんでした。


それなのに・・
私の祈りに与えられた回答が・・


「文先生はメシヤではない」


だったのですから。


正直・・訳、ワカメ(わからない)
    意味ふみこ(不明)


状態でした。


受けた啓示にたいして・・消化不良を起こした・・と言う感じです。


後・・
さらに言えば・・


その頃は・・
統一教会の熱心な信者だったことから
この啓示をどの様に扱うべきか(啓示は正しい啓示なのかそれとも偽りなのか?)
が分からなかったことから・・
このことを・・アベルに相談・報告をしたのでした。


そして・・
相談の結果として・・
啓示が正しいか正しくないかよりも・・
教会でこの証しをするのは 不可能。・・と言うことがわかりました。
  そのときのアベルは
  話の途中から・・証しを受け入れることができなくなったようで・・
  (多分? 嫉妬心? に駆られたのだと思いますが・・
   怒りに支配されたように・・目が真っ赤に燃え上がり・・
   その目で私を睨みつけ・・
   全身が抑えられない怒りで震え始めたのでした)
  それで私は最後まで証しをすることが出来ませんでした。


まぁ・・当たり前ですよね。
教会員にすれば・・聞くに堪えられない内容だったと思います。
「文先生はメシヤではない」だなんて



それで、私は・・結果として・・証しすることをあきらめて
待つ道を選んだのでした。


神様とイエス様が見せてくださった戦場では
沢山の方が天の為に戦っていました。


戦っているのは私一人ではない・・


そう・・思ったのです・・