前回の記事は・・ten1kokuさんではなく、tomyさんでした。

ten1kokuさん、tomyさん、間違ってしまってすみませんでした。
ten1kokuさんのコメントはこちらでした。
>➀ 私は、文先生が神様より 上や下や、などと言う観念(概念)はありません。考えたこともありません。神様は神様、文先生は文先生です。
宇宙、被造世界を創造されたのが、神様です。創造目的は原理講論に書いてあります。


② 文先生が写真のことで、「良心の呵責があった」かどうか、私にはわかりません。


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>>①の件は私の説明不足だと思います。(改めて記事にさせてください)


  ②の件は・・
   厳密に言えば・・ご本人(文先生)にしかわからないことではある
   とは思います。
   ですが、
           普通・・人は、


   ウソを認めるということは・・かなりの苦痛が伴うと思います。


   多分・・生涯で一度もウソをついたことがない
   と言う人は存在?しないでしょうし、
   誰でも、自分のウソを認めたくはないでしょう。


   負けを認めるようなものですから。
   ですので、ウソの告白をするときは・・自分の中の良心に屈服
   したとき(良心の呵責に負けた時)ではないでしょうか。
   なので、文先生にも良心の呵責はあったと思います。
   (それでも・・文先生は「写真」については誰にも 謝罪 
    されていないので、
    その点での良心の呵責は・・なかったかもしれません。
    ・・ウソをついた自覚があっても、そのことによって他人が傷つく
    と言うことへの理解?配慮?がない?できない? ということでしょうか。
    文先生の内面の世界ですので・・やはり・・わからないですね)



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前回の続きです。
イエス様の「文先生は関係ない」と言う言葉に
私は動揺したと同時に、「そんなはずは ありません」・・と
イエス様に反論しなければ・・という思いに駆られました。


ですが・・
お二人の様子から・・
「その名を私たちの前で二度と口に出さないで欲しい」
という・・強い思いが伝わってきて、私はそのことについては疑問に思うことも
考えることも止めることにしました。


そうすると(自分の気持ちを落ち着けると)・・神様とイエス様が窓から下の方を
何度もご覧になられながら、深刻に話し合っておられることが気になるように
なりました。


そして、自分も同じものを見たい。
この足元のはるか下に広がっている光景を私も見たい。
と、強く願いました。
すると・・
床にお二人が見ておられるのと同じ窓が現れ、
その窓からそのまま下を見下ろすことが出来るようになりました。


下(地上界?)の方からは人々の争う声?
沢山の人が戦っているような壮絶な音?が
直ぐに聞こえてきました。


私は「一体、何のことで争っているのだろう?」
「・・何処の戦争だろう?」
「今、戦争ってやっていたっけ?」
と、不思議に思いもっと近くで見ることを願いました。
すると・・
私の身体はその場に降り立っていました。


そこは・・見渡す限りの戦場でした。
瓦礫が散乱し、何人もの動かない人が折り重なったり、
仰向けに倒れていたり、重傷を負ってうずくまっている人、
痛みでうめき声を上げている人・・と
闘いのすさまじさが伝わってきました。



・・・・・・・・・・・・・・・・つづく