主の路程・・あなたの解釈が変なのよ!

「文先生に対して、失礼でしょ!」
と、思っている私ですが・・


「あなたの解釈の方が変なのよ」
と、教会内では・・指摘されていました。


・・写真ではなく別の話ですが・・


文先生の子供時代の武勇伝に


 ”瓜泥棒”


の自慢話があります。
  ”村で瓜をつくる名人がいて、
  その名人が瓜をとても自慢していて、
  それを見ていた文少年が
  「おじさん、瓜が熟れたら僕にも分けてくれる」
  「あぁ、取ってもいいよ」
  と、言ったそうで・・


  それを聞いた文少年は瓜が熟れる頃に、 
  村中の子供たちに夜中に袋を持って畑に来るように、と声をかけ・・
  村人が寝静まった真夜中に瓜畑の瓜を全て盗んだとのこと


  朝になってから村中大騒ぎになり
  文少年の仕業とわかり・・事の真偽を尋ねられた文少年は
  畑のおじさんに
  「僕にくれる・・って言いましたよね。
   僕に嘘を言ったのですか?」
  と、喰ってかかり・・大人をやり込めました”


 という自慢話。


主の路程の後、私は・・
    「文先生って、両班なんですね。
     両班って・・子供でもこんな無茶が
           許されるんですね」
というと・・
私を担当していたお姉さんが、
 「あなたは・・解釈が間違っているのよ。
  この話は・・文先生がいかに気骨あふれる少年だったか、
  ということを教えているのよ。
  講師の真意を理解できないあなたは、変」


? 今もよくわからないのですが・・
そうなのでしょうか。


同じ子供時代の自慢話で文先生がケンカに負けた時に
裏山で木を相手に猛特訓をして、
勝つまで、その子に何度でも挑戦を続け・・?数年 をかけて、
最後には勝ったという話がありますが・・
そちらの方は・・納得します。
文先生は子供時代から負けづ嫌いで初志貫徹なんだ・・と


ですが・・瓜泥棒の話はどうなのでしょうか?
     ”瓜をひとつ残らず取った・・だから、初志貫徹?”


文先生の晩年に出された「自叙伝」にもこの話は載っているので
教会員以外の方も読まれた・・と思うのですが・・
この話を読んだ普通の方は・・多分・・
自慢話・・というよりも
非常識な(両班)・・と、判断するのではないでしょうか。


 「これが 両班 なんだ。
  このあと・・この瓜畑の人・・当てにしていた収入がなくなって・・
  自殺した・・かも
  (北朝鮮の厳しい冬では農作物を育てるのは不可能なこと。
   夏場の収穫だけが頼りのはず)
  そして、奴隷が自殺しても 両班 は痛くもかゆくもなし、
  しかも、両班は時代が変わっても、
  この歳(大人・老齢・自叙伝の発刊)になっても、
  奴隷の苦痛・立場を顧みることはない」
  
と、解釈される・・と・・思うのですが・・


まぁ・・何が正解かは、わかりませんが
   もし・・
     瓜の自慢話をするおじさんを負かすのであれば・・
     おじさんよりももっと立派な瓜をつくり
     おじさんの鼻をあかす・・というのが・・筋のように
     思います。


そして・・普通の・・回想録としては・・
   「昔の先生は随分やんちゃなことをしてしまった。
    あの瓜のおじさんには申し訳ないことをしてしまった。
    あれでは・・収入がなくなって・・一家離散になってしまったかも
    しれない」


と、反省の弁として載せる・・のが通常のような気がします。


それに ”再臨のメシヤ” から断罪された瓜畑のおじさんには、誰が
救いの業をもたらすことができるのでしょうか?


  日本でも秋の実りのころに果実を盗まれる話はよくありますが・・
  農家の方の落胆ぶりはニュースでもよく取り上げられています。
  それが・・瓜を全て取られ・・畑は子供たちの足跡で滅茶苦茶でしょうし。
  おじさんはきっと・・号泣だったでしょう。
  そして、両班 を 文家 を 文少年 を心底恨んだでしょう。


  ”真の父母を人類のメシヤを恨んで死んだら・・誰も救えないでしょう”


それとも・・両班らしく・・
   「奴隷の一人や二人で、ゴチャゴチャとうるさい。
    恨むのだったら・・両班ではなく、奴隷に生まれたことを恨むべきだ」


   「主の路程」らしく・・
    文少年は初志貫徹なのでやっつけるときは徹底的に、盗むときは一つも残さず。
    何年たとうとも文先生は変わらない。最後まで両班らしく。なのでしょうか?