「私が本物か偽物か、神に問うが良い」・・by文先生

私にとって、
「待ち人現れず・・」
の状態が続いているときに・・


  文先生が(メシヤとして)


  「私が本物か偽物か、神に問うが良い」


  と、言われました。


その言葉を聞いたときの私の率直な感想は・・


  「神様に問うが良い・・
   って・・
   文先生にとって 神様 って 何?」


でした。


正直に・・ ? でした。


「神様に聞いてみよ」って・・何 ? ・・どういうこと ? でした。


その時私が思ったことは・・
もし このことを・・
私のような一信徒の立場で 置き換えたとしたら・・
でした。
  (文先生は御自身を第三アダムとして 神様との関係を親子 としている。
   それは・・
   私たちが文先生を 真の父母 として 文先生との関係を親子 としている
   事と同じこと・・多分)


 なので もし私が 他人から
  「あなたは統一教会の信徒ですか? それとも違うのですか?」
 と、問われた時に、文先生が言われたように
  「私が教会員かどうか 文先生 に尋ねるがいい」
 と、答えたならば・・


 そうであれば・・
 私は・・そのように答えるだろうか・言えるだろうか・・
 と、考えてみました。
 (もし私が「文先生に問うが良い」・・と答えたとしたら・・
  それが意味することは・・
  私が文先生を私の証し人にしたと言うこと。
  私が文先生を証し人(洗礼ヨハネの立場)にしたと言うこと)


 普通に考えて
  自分の立場を証明するのに 自分よりも上の人を使う(証し人にする)
  (洗礼ヨハネの立場にする)ことなどしないでしょう。し、できないでしょう。
    
 普通は・・畏れ多いと思うし、何より 申し訳ない と、思うでしょう。


 普通は・・自分の証明は自分がする。其の行いでもって。でしょう


でも・・
文先生は・・
「私がメシヤかどうか、神に問うが良い」
と、自身で果たすべき証明の責任を神様に押し付けることが出来る・・


それって・・何?


「文先生にとって、神様って・・何! 」


そう思いました。


でも・・まぁ・・
私が出来ないだけで・・教会員の中には


「私が教会員であることの証明は文先生がする。
 文先生、私が教会員であることを証明せよ」と、言える人は


いるかもしれない・・
とも思い、深く考えることは止めました。


それに、「神様に聞いてみよ」と言うことが・・そうすることが
私にとっては・・「おもしろい」 とも思いました。


  その頃の私は・・
  (文先生がメシヤであるか・否か)よりも
  統一教会の教会員でしたので、
  教会に所属している事への 礼儀として、勤めとして、
  祈るときは 「文先生の聖名」を通して神様に祈る。
  と、いうことをしていました。
   「天のお父様、真の御父母さま」
  で祈り始め、最後は
   「真の御父母様の聖名によりお祈り申し上げます」
  と、祈っていました。 
(今は祝福家庭の名を通して祈っていますが当時は文先生の聖名を通してでした)


そしてその頃の私は文先生の聖名を通して祈ることに問題を感じていませんでした。
と、いうよりも・・聖名を通すことに重要性を感じていませんでした。


なので・・文先生の聖名を通さず直接祈ることに


「挑戦したい」・・と、思いました。


それに、直接祈るのは
久しぶりなので楽しみでもありました。
  それは・・
    私は両親、特に父の影響を受けて
    子供の頃から熱心に神様に祈っていたからでした。


   (なので、天上界で神様とイエス様を紹介された時に
    子供の頃に 神様と祈りで通じていたという経験があったので  
    神様よりもイエス様の方に 違和感 があったのでした)


それで私は「祈れば昔のように神様に通じる」・・と・・自信を持って祈り始めました。


ですが・・


昔のように 「神様・・」 と祈り始めたのに・・
何故か・・
その時の祈りは いつもとは違っていたのでした。
(子供の頃)は・・そのまま祈りが霊界に通じていたのに・・
その時は・・祈りが通じなかったのでした。


それで私はいつもより 深く祈っていくことにしました。
そして しばらく祈っていると・・
気が付くと・・
私は・・靄のような・・霧のような・・ものが立ち込めている中に
一人で立っていたのでした。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(つづく)