良心は先生に勝る・・「それ、あんたが云う」

昔・・韓国での修練会に参加すると、必ずと言っていいほど 
文先生による「講話」がありました。
私たちは「アボヂ・ロード」と呼んでいた 文先生が歩かれる道を作り、
先生が自分たちのそばを
歩かれるのを楽しみにしていました。


確か、「良心は両親に勝る・良心は先生に勝る」を聞いたのは1980年代
後半だったと思います。
その言葉はまだ、教会ではみ言葉としては伝わってなく、私は その修練会で
初めて聞きました。


ですが・・
文先生から語られた時、最初に感じたのは・・
私、個人としては「それ、あんたが云う」でした。
   というのも・・
   その頃 私が所属していた教会では、
   例の写真 (文先生が朴青年を背負って海を渡った写真)
   それが「ウソ」だということが問題になっていました。
   最初、教会には「文先生が海を渡った証しが出てきた」という触れ込みで
   展示用の大きなパネル写真と販売用の
   プロマイド写真が持ち込まれていました。
   ですが、数日後にはすべての写真が教会から消え去りました。
   理由を聞くと「写真の人物が文先生に見えないことから、教会長(777双)が
   知人に確認を取ると、
   (・・朴ポーヒー先生が「韓国の新聞に載っていたのを先生に見せると、文先生が
    「これは、私だ」と言われたとのこと。
    しかし、写真の説明文には「・・を背負って河を渡る少年」と題されていた
    とのこと)
真実がわかってから私たちの教会はとても沈んでいました。
文先生の嘘が教会員に影響を与えていました。
教会に通ってこなくなった人も出てきました。
   特に教会員を傷つけたのが・・相手が子供だったことがあったと思います。
   韓国では「水に落ちた犬を棒で叩く・弱い者はさらに貶める」が
   当たり前であったとしても、日本では弱い者いじめはその人の
   品格の問題となります。
   本来であれば、例の写真は写った少年が賞賛をあびるはず。
   それを・・少年に与えられる賞賛と栄光を、再臨主を名乗る大人が
   自分の栄光にしてしまうとは・・
   文先生に良心はないのか、恥を知れ、
   先生にはウソで傷つく人がいることが理解できないのか
そう、思っていたのに、その時に良心の話がでてきたのですから・・
「良心は両親に勝る」を聞いたとき、
私は思わず・・「それ、あんたが云う」そう思いました。
  「他人が見ても文先生だと思えない写真を自分だと言える、
   嘘が人を傷つけるということが理解できない
   そんな・・良心のかけらもない
   良心の何たるかをわからに人が良心を語る?
   全く説得力がない・感動もわかない」
   そう、思いました。
ですが・・
私は言葉自体はとてもいい言葉だと思いました。


 良 心 は 両 親 に 勝 る ・ 良 心 は 先 生 に 勝 る


本当にいい言葉だと思いました。
それで、文先生の講話後、わたしは一緒に来ていた人に、
「ねぇ・・あの、み言葉、いいわよね」そう言いました。
私は、み言葉の価値自体は食口同士で共有できると思っていました。
それほど 言葉自体 には感動したし、価値ある言葉だと思いました。
ですが・・その時、私と同じように感動している人はいませんでした。
休憩時間中も食事時間中でもそのみ言葉を話題にしている人は
いませんでした。


私には、このみ言葉に感動しない理由がどこにあるのかわかりませんでしたが、
ただ・・
こんなにも価値のあるみ言葉なのに・・人を感動させることができない・
人を納得させることができない・・だなんて・・
そう思いました。
そして、多分・・
価値あるものの
価値を最も下げているのが・・文先生ご自身なんだ・・そう思いました。
本当に、残念なみ言葉になってしまいました。
確か・・み言葉としての公式な発表はなかったと思います。
それで、皆、記憶の中でのみ言葉となってしまったので、各々が
良心は(両親? 先生? 師? 恩師? 神様? ・・・)に勝る。
と・・それぞれが思うままに
語ってしまうことになっているのだと思います。


本当に・・
1980年代頃にそのみ言葉を直接 聞いてきた身としては・・
「良心は〇〇に勝る」そのみ言葉を聞くたびに
当時の事を思い出し、複雑な思いになってしまいます。


  文先生が語ったがゆえに本来であれば
    生きるはずの言葉が 死んだ言葉になってしまったと。