すみません。前の記事で 訂正 があります。

前の記事 ”文先生のウソ・・教会の 卑怯さ を実感したこと”
で、訂正があります。申し訳ありません。
  文先生が ウソ を認めたのが 20年後だった・・と、書いたのですが
  正確には10年程でした。約、10年後の事になります。
私が・・勘違いした理由は、
元々、20年後の話 を書くつもりで書き始めていたので
頭の中で数字が残っていたのだと思います。
すみませんでした。


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で、20年後の話ですが・・
 (つまり、文先生が ウソ を認めてから10年後の話になります)


その頃の私は支部教会に所属していました。ある日、私と数名の教会員に
中央教会に行くようにと連絡が入りました。
「新人の原理講師の講義を受けてほしい」ということでした。
そこには、信仰歴が10年から20年ぐらいの人が集められていました。
互いに知っている方もいたので、15名ぐらいですが和気あいあいとした
和やかな雰囲気でした。


講師の方は20代半ばぐらいでしたが、緊張しているのか、
私たちにではなく、空に向かって必死で言葉をつないでいるようでした。
ですが講義自体はとても流暢で相当練習してきたのが伝わりました。
まるで私たちは保護者のような感覚でした。


講義は「主の路程」で、前半は同時性だとか、韓国の歴史だとか、
時代的背景が一時間半ほどあり、
休憩をはさんで、メインの文先生の路程に入ることになりました。
休憩中に部屋には プロジェクターが準備されました。
「試しの講義なのに結構 本格的にするんだ」と、思っていると
講義が始まりました。


しばらくすると・・そのスクリーンに「例の写真」が映し出されました。
映し出された瞬間・・参加者全員が驚いてしまいました。
「えっ、この写真って!」
「この写真 使うの!」
「えっ、どうして?」
驚きと同時に、
その場にいた全員がここに集められた理由を探し求め始めました。
そして・・出た 結論は
「私たちが写真に対してどのような反応をするのか
 それを確認するために集められたのだ」でした。


写真は 主の路程 ではメイン中のメイン になっていました。
   文先生が足の悪い朴青年を背負い海を歩くシーン
   「私が背負っているのは全人類だ」
   文先生が再臨主としての覚悟を表すシーン、
   映像と共に流れる物悲しい聖歌
   「孤独な御姿で ただ一人ゆかれる・・」
   だれもがすすり泣くシーン・・
ですが・・その場には、そのような人は一人もいませんでした。
講義中とは思えない・・不思議な雰囲気の場となりました。
本来であれば 涙・涙の主の路程のはずなのに・・
変に冷め切っていました。


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私もその一人でした。
私にとっては「これが、教会のやり方か」・・と、
教会の卑怯さ(悪意)を痛感した出来事でした。
   その時の私は・・
   教会が何故 ウソの写真に対して正式な発表をしなかったのか?
   その理由に至ったように思いました。
このためだったのではないか・・と
「ほとぼりが冷めたら・・また、使うつもりだったんだ」と。
写真を否定さえしておかなければ・・忘れたころにまた使うことができる・・と
教会はそのように判断しているのだ・・と。


さすが、韓国発祥の宗教。・・と思いました。
「嘘も百回言えば真実になる」の国。


だけど、日本では ウソ は通じない。
教会が百回ウソをつくのであれば、真実を知るものは百プラス1回
真実を語ればいい・・そう、思いました。